最近、私の周りで何かと話題になったこと。
【全ての状況にあてはまるとは言えませんので、その点をふまえて読んでいただけるとうれしいです。】


生徒と指導者(先生・先輩)との距離が近くなるのは良いことだけど、近すぎても問題。生徒が指導者を指導者として見る時と一般の大人(遊び相手)として見るときのけじめがなくなっている。

「最近の子は・・・」とか「自分があの子たちくらいの時は・・・」とか言うのも言われるのも嫌いな私なのでこういう話題にはムキになって反論したくなるが、ここはひとつ冷静になって考えてみる。

たしかにけじめは以前に比べればなくなっている。それは私自身にも言えること。今は遊び相手、でもある一定の時間内は指導者。指導者と生徒という関係の時は両者の間には一線が引かれ、必要以上の親しさは排除しなくてはならない。でもその時間が終われば双方親しみを前面に出して接してよろしい。という考えが身につくまでそれなりに時間を要した記憶がある。

しかし。その背景として、これはある講義の受け売りだけど、指導者やその団体(学校・部活など)を絶対視しなくなっているという考えがあるのでは、と私は思う。学校には行かなくてはならない。先生のおっしゃることは絶対。と考える人よりも、学校に行きたくないなら無理に行かなくてもいい。先生も人間なのだから絶対ではない。と考える方が主流なのでは。
学校に限らずある特定の人物・団体、たとえば親や家族なんかも、を絶対視しなくなっている、と思う。これは私も然り。

親だって先生だって人間なんだ、という考えは私が中学にあがった頃はまだ思春期の青年・少女が抱く「自我」の考えとして教えられた記憶があるが、今はもしかしたら小学校に上がる前から親や友人、その他諸々の環境から刷り込まれているのかもしれないな。右は右・左は左と刷り込まれるように。

何かを絶対視しない、という考えが一般的になったら、一時的にでも何かを絶対視するという考えを身につけるにはそれなりの時間と労力が必要。

指導者にとってはいい迷惑なハナシだが、時がそう流れてしまっている以上、そしてそのつもりはなくとも自分もその流れの中で生きてその流れをつくっている以上、流れに沿った方法が必要なんじゃないかな。

自戒をこめて。